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2k 庭付き 幽霊憑き

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2Kの借家に住む女の子と女の子の幽霊の二人の視点で進行していく四コマ漫画
ゆるい幽霊との共同生活


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[ 2010/08/31 21:28 ] 読み物 Webコミック | TB(-) | CM(-)

魔都・香港の思い出

いまは小綺麗でリッパな都市になっているであろう香港
僕は香港で、いまとはちがうであろう
魔都ともいえる香港で少年時代を過ごした

部屋を掃除してたら当時の日記が出てきた
それを基に当時の出来事を書きます
香港ではいろいろなものを目にしました

いま辛い人
辛い過去があって忘れられない人
辛い人を馬鹿にしてる人

このスレを覗いて何かを感じていただけたら幸いです




僕が香港に住んでいたのは15年くらい前の話
そこで5年ほど暮らしました

見るものすべてが新しくて、空港が臭かった
カオルン半島からみる花火はいまでもきれいでしょうか


父の仕事の関係で香港に行ったんだけど
当時僕は幼稚園児で、現地の幼稚園に転入することになりました

まだあるのかなーネットで調べても出てこないや

その幼稚園には黒人の子も、白人の子も、中国人も日本人もいました


スクールバスは黒人・白人・外国人用、現地人用の2つにわかれていて
クラスも違ってた。
どうして?って最初思った。それは住んでるところが違うから。
外国人や、白人は山の手に住んでいて
現地人はマーケットのあるあたりで生活しているからで
当然おたがいに交流なんか無かった


買い物をするところも違っていて
"WELCOME"っていう大手のスーパーチェーンは外国人・白人向け
現地の人はマーケットで生活物資を買ってました
で、
身につけてるものとか持ってるものも当然違うのね
日本はみんな同じじゃん

そういう環境になじめなかった

おかしいよ、って言ったら父親に殴られた
保母さんにも殴られたし
黒人のベビーシッターにも殴られた

それぞれ言ってることは違うの
父は「文句を言うな」ってかんじで
保母さん、黒人さんは「イイ暮らししといて何勝手なことを言ってるの」
ってかんじ。

香港はまっぷたつに分かれていた。
英語を使う上流階級と、現地語の下層階級。
両方共に言い分があって、日本人は形式上、上流階級にはいたけど
白人が使うクラブとかには入れなかった。

日本人倶楽部っていうレストランみたいなホテルみたいな
ホールがあってまぁそこは日本人専用なわけ。
日本人は日本人でコミュニティを作ってたし
白人、黒人もそれぞれ現地人とは接触しないコミュニティをつくっていた。

中国なのに、中国人と接触しない集団だった

街の中心街は完全に富裕層しかいなくて
いまはなき"そごう"が街のシンボルだった
"そごう"の近くにはタクシー乗り場があって
いつもすごい長蛇の列。そいでもってタクシーのドアを開けて
お客を入れたり、列を整理する係員がいつもいた。黒人のデカイ男だった。
まともに並んでいたら一時間くらい待たなきゃいけない
けど日本人や白人はドアマンにチップを払ってさっさと
列に割り込んで乗って行っちゃう。

マーケットが中心部に隣接した地区にあって
そこにはタクシー乗り場の列と同じくらい
いっぱい乞食がいた

乞食っていうのがもう衝撃で
ずっと見てたよ。母親に叱られるまで。
最初理解できなかったしね。
腕とか脚がなくて、空き缶やらハコを前において
「ぅうー。ぅうー。」って唸っている。
なにやってるの、病院に連れて行かなきゃ。そう日記には書いてあった




で、中心部での買い物の帰り道
僕は乞食にさらわれた。




片足がない乞食で、そいつに
街の雑踏からぐいっと腕を掴まれて
路地裏に連れていかれた。怖くはなかった。「なんだろ、なんのようだろ」
って思ってた。
抵抗もしないで、びっこを引いてる相手に合わせる感じで
ホイホイ付いて行った

んで、乞食のバラックみたいなところに行ったんだ
ビルとビルの隙間に町があるんだよ、もう信じられなかったよ
僕は英語を使うコミュニティにしか属してなかったから
現地語がわからなかった
乞食は仲間を呼んで、いろいろ僕に質問したり、話しあったりしてたけど
僕には何がなんやら。
印象的だったのは、みんな不具だったということ

身体の一部が欠損している人たちの集落だったんだろうね
その惨めさは日本の西成とかあいりん地区みたいなもんじゃない
あそこには一種の陽気や活気があるけど
日もささないビルの谷間で排水パイプに穴をあけて飲んだりしてるし
犬やら猫の死骸やらでひどい匂いがするし。
中国の人ってすごく姦しくしゃべるイメージだけど
彼ら乞食はぼそぼそって喋るんだよ、内緒話でもするみたいに


そいで3日間一緒に生活(?)した


こいつら何する気なんだろうって思ったけど
しゃべってることが理解出来ない
普段「みなかったこと」にしてしまう人たちに
囲まれて、なにか言われてる

しばらくすると電話番号を教えろって言ってることが分かった(きがする)
でも恥ずかしながら僕は自宅の電話番号を知らなかったんだよね
ふつう幼稚園児ならそうじゃないかなぁ

で、結局3日間僕が何も食わないで水(しかも排水パイプの)だけ
飲んでるからぐったりしてきて、頭がぼんやりしてる間に
街の雑踏に捨てられて、"そごう"の従業員が通報してくれた(んだと思う)

そこからが本当にひどかった

乞食との3日間は至ってフツーに過ぎたんだ
僕はコトの重大さをわかってなかったし
食べ物はないし水にはあたるしで
怖いとか思う余地がなかった

乞食たちは僕を最初話が通じないなら
食べるつもりだったんだと思う。

白人のクラスメイトがひとり乞食に殺されて食われたって
話をその後知ったから

でも乞食たちはそうしなかった。
もっと得な方法を見つけたんだ
それは僕と僕の家族をマフィアに売ることだった
街路に捨てられた僕は結局日本人だってことがばれてて
迎えに来たタクシーをつけられたらしい

香港のマフィアは日本のヤクザと違ってメチャクチャだった
因縁をつけられた僕の家族は、最初山の手のマンションに住んでたんだけど
警備員が僕たちをマフィアに売った。
ある日買い物を終えて母と僕が家に帰ってきたら
マフィアがいるんだよ、家の中に

僕と母はなにも出来ずに
現地語がわかる父の帰りを待つしかなくて
リビングでくつろいでるマフィアを見ながら
夜になるまで呆けてた

父が帰ってきた。
父は当然すごく取り乱していた。なんじゃこりゃーってなもんで。

結局、あるだけのカネを払って帰ってもらって
すぐにビクトリア・ガーデン近くのホテルに
持てるだけの荷物を持って走って行って、それから一週間位泊まった。

そしてマフィアのユスリから逃れようと父は
現地の日本人ヤクザに間に入ってもらうことにした
これがいけなかった

現地の日本人ヤクザはマフィアを追い払ってくれたけど
その「守り代」が高くついた
ヤクザを父に紹介した証券会社の人はさっさと日本へ帰ってしまったし
ゆすられる相手がマフィアからヤクザに変わっただけだった

それから、僕は幼稚園に通えなくなった

ヤクザに狙われてるから、マフィアに狙われてるから
近づいちゃダメってことで。
悲惨なのは幼稚園側も僕を助けてくれなくて
クラスに入らないように、と保母さんに言われて
スクールバスが来るまでずっと、廊下とトイレを行ったり来たりしていた。
その間に僕のズックや通園かばんはジュースでびちゃびちゃになっていたり
英語の教科書は全ページ糊付けされるという笑えるけど笑えないいじめにあった。
イジメが陰湿なのは黒人も白人も変わらない

父はもっと悲惨だった
日本人倶楽部へは行けなくなった。
白人も黒人も日本人も中国人も、どのコミュニティも僕らを排除した。
異国の地でひとりで家族を養わなくてはならなかった。

父は毎晩、酒に酔って僕と母を殴るようになった

母は完全におかしくなってしまった
異国の地で現地語も出来ないし、知り合いといえば
僕の幼稚園の親御さんつながりくらいだったのに
その知り合いも潮が引くようにいなくなった。
父からは毎晩殴られる。僕が殴られそうになるといつもかばってくれた。

でも父が母を殴り疲れて眠ると
母は僕を殴った。

僕が乞食にさらわたのがそもそもの原因で
それさえなければ今も普通の家族でいられて
父も暴力を振るったりせずに、お金にこまることもなくて
僕を普通に育てることが出来たのに、と。
僕は母のそういう二面性というか、父がいるときは助けてくれるのに
父のいない時や寝ているときに僕を殴ったり、切りつけたり
ライターで炙ったりするのはなんで?と思って、ついていけなかった。
僕は僕を理解したり、助けてくれたりする人を失った

僕が小学生になってからもそれは変わらなかった。
僕にいつも青アザや火傷の痕があっても
先生たちは「どうしたの?」と聞くこともなかった
当然、同級生たちも僕を疎んじた。幼稚園時代の「ともだち」もいたから
彼らがウワサをひろめていたんだと思う。

ある日、家族でカオルン半島に行って花火を見た。
香港からカオルン半島へは「スターフェリー」という船で行く
僕は父と、母と花火を見ながら
「ああ、これでお父さんもお母さんも元通りになる」
「もう僕を殴ったりしないんだ。包丁で腕を切ったりしないんだ。
ライターでお腹を焼かれることもないんだ。」
と何の確証もなく、信じた。
カオルン半島から見た花火はほんとうに綺麗で
僕をそういった幻想の世界へ連れて行くには十分すぎた。

僕は、そこで両親に置き去りにされた。

花火が終わって「キレイだったね!」って言っても
周りに両親がいない。しばらくお父さん、お母さん、って呼んで回った。
いなかった。
人ごみがすごくて、はぐれただけでスターフェリーの乗り場に行けば
きっと僕を待っている、そう思ってスターフェリーの乗り場に行った。
待っても待っても、叫んでも叫んでも父も母も現れなかった。

まぁ、そんなことしてるうちに、日本人が日本語で喚いてる僕を見つけてくれて
警察(?)に届けてくれたんだけど、そこでその日本人とはお別れ。
警察は英語分からないし、僕は現地語わかんないし。
で、信じられないことに僕をそこで追い返したんだよ。
あっちいけ、っていうジェスチャーは共通だからわかった。

夜の香港の街にひとりでほっぽり出されて僕はすごく怖かった。
またマフィアに拾われて売られて、父がもっと僕を殴るようになるんじゃないか、と

僕は夜が明けるまでふらふらしてて
どうにかこうにか、ほんとにどうやってか思い出せないけど
家まで歩いて帰ってきた。スクールバスと家との往復だから全然土地勘も
なかったのによく帰れたと思う。

朝方帰ってきたとき、僕は玄関の鍵がかかってたからチャイムを押した。
そりゃもう必死で押しまくった。
香港の家って大体鉄格子があって、その奥にドアがあるんだけどさ
ドアを開けた父が、一瞬固まって、ドアをまた閉めた。
そのとき、「ああ僕カオルンで捨てられたんだ」と悟った。

僕が泣きじゃくって鉄格子をガンガンゆらしてチャイム推しまくってたら
近所の人が来てくれて父も家の中に入れてくれた。

その日から父と母は二人して僕を殴るようになった

母が僕を抑えつけて、父が殴る

毎日そうだった。学校では相変わらずみんなに無視されてたけど
殴られるより良かった。
シカトもつらいよ、けど両親にそろって殴られるのはもっと辛かった。

しかも殴ってる時はふたりとも、ヒトコトもしゃべらなかった。
僕が何をわめいても。叫んでも、哀願しても二人とも
なんの反応もしなかった。それが一層つらかった。
このころの日記には「いたい。」としか書かれていない

日本に帰ってきたのはそういう生活を2年くらい続けてから。

日本に帰ってくると二人とも、急に優しくなった。
殴ることなんかなかった。
逆に僕にはそれが許せなかった。

あの地獄みたいな夜を、なかった事にしようとしていると思った。
僕だって、乞食にさらわれたくてさらわれたんじゃない。
3日間もすごく寂しかったんだ。そのあとマフィアやらヤクザやらが
僕たちを食い物にしたけど、そのプレッシャーを二人とも僕に向けたじゃないか。
言ってしまえば、父さんも母さんも僕を(何かに)売ったくせに
なかった事にしようとしている。
僕は日本に帰ってきてからというもの、10年くらいまともに両親の顔も見られない
歪んだ性格に育った

日本に帰ってきて2年たち中学生になっても
僕の「学校生活」はほとんど変わらなかった。
疎んじられることに慣れすぎてしまった。
田舎だったせいか「香港から来た」「日本人」というのが皆不思議でしょうがない。
僕は、親しげなふうに近寄ってくるクラスメイトにうまく
対応することが出来なかった。
からかい半分の悪口にもうまく対応することが出来なかった。
結果、僕はやっぱり友人ができず、孤立していた、家にも僕の居場所はなかった。
ずっとずっと、僕は両親をいつの日か殺してやるいと思って生きていた。

香港という言葉にも過剰反応だった。
1999年、香港が英国から中国に返還され、それを祝っているニュースを
見たとき、僕ははじめて父を殴った。

「僕のせいじゃない」「おまえのせいだ」「僕の腕にも、腹にも、脚にも
痕はのこっているんだ」「なかった事にさせるか」「殺してやる」
こういうことを言ってたと思う。
父が僕の首を締めて、そこからちょっと記憶がない。
でも確実なのは、僕が父を殴りつけている時も、父が僕のクビを締めている時も
母はただ見ているだけだったということ。

僕はそれから表面上、両親にも柔和に接するようになった。
こいつらを踏み台にして、僕は自由になって、こいつらが助けを求めてきたとき
死ぬほど殴りつけてやる。父も、母も。
そう思って生きた。それだけを思って生きた。
話をすることはああっても顔を見ることはなかった。

高校に進んだ。
大学へ行った。僕に殺されるために僕を育てている両親を嘲笑った。
今思えばなんてことはない、逃避の思考だ。殺したいなら、そこでさっさと殺せばいい。
そういう単純な度胸は、なかった。

大学はできるだけ遠くの大学を選んだ。縁もゆかりもない地で
僕は生まれ変わって、新しい僕になる。
そういう夢想に取りつかれて勉強して、入学した。

憎んでいたはずの両親から仕送りも貰っていた。
なんてことはない、「いずれ自分を殺す息子にカネをくれていかしてやるなんて
おまえらはなんてバカなんだ。」と
悦に入りたかったから。


大学を出て、就職した。絶対みんな名前を知ってる会社だ。
それを契機に両親との接触を一切絶った。
付き合ってた彼女に「両親は死別した」と言った。
結婚式に、僕の身内の人間はいなかった。
いたのは会社の同僚だけ。

僕の体の傷について、妻はまだ結婚していない、交際中だった頃から
それとなく聞いてきた。僕を刺激しないよう、僕の過去に土足ではいらぬよう。
僕を傷つけないよう、接してくれる初めての人だった。

そういう人にずっと僕は嘘を付いていた
「両親は大学時代に死んだ」と
「体の傷は、交通事故でついたのだ」と
「両親は、とてもいいひとだった」と

妻は、感づいていた。
体の傷から、僕の言動から。その耳で、目で、心で察知していた。
僕が嘘を付いていると。
僕の両親はまだ生きていると。
僕の傷はおそらく僕の両親によって付けられたものだと。

でも彼女は僕を問い詰めたり、責めたりしなかった。
つい先月までは。

彼女は結婚するときの「子供は、欲しくない」という僕の言葉を
受け止めてくれていた。けれど、僕の嘘もたいがいばれていたし
そうする理由もわかってくれていた。

それでいいと思っていた。
察してくれたら、それで。話したくもない。
どこから話す?香港に行ったとき?
父が僕に暴力を振るい始めたとき?
僕が両親を殺したいと思い始めたとき?
考えたくもない。

話さなければ、和やかに暮らせる。そう思っていた。
彼女の懐は僕の理想郷だったけど
彼女の一言でそれは一旦崩壊する。

「もし」
妻は寝入りばな、ベッドで僕に問いかけた
「子どもが欲しいなと思ったら、全部話すの?」
「あなたの、お父さんやお母さんのことも?」

僕は頭が真っ白になってなにやらわめいて叫んでしたあと
外に飛び出した。あてもなく走った。
まぁ家の周りをぐるぐる回ってただけなんだけど。

全部、わかっていて僕といっしょになったんだ。
冷静にそう思えるようになって、心臓も落ち着いた頃
家に帰った。帰り道は、カオルンで捨てられた時の記憶がダブった。
でも家には鉄格子はなくて(当たり前か)、鍵もかかってなくて
玄関で妻が僕を待ってくれていた。僕は全部話した。
僕が、香港に行って、そこで何をされたか。今までどういう思いで生きてきたか。

僕は泣いていた。たぶん途中からほとんど日本語になってなかった。
でも妻も一緒に泣いてくれた。
それが嬉しかったから、もっと泣いた。


「これから、どうする?」


もし、子どもが生まれたら、僕がされたことと同じような事を
僕の子にしてしまうんじゃないか、それが怖い。
殴って、切って、焼いて、僕が両親に心底したいと一時期思っていたことを
僕は僕の子にしてしまうんじゃないか。
そうやって僕は、いつか子を殺すか、子に殺されるかするんじゃないか。
いや、殴って切って焼いた時点でもう殺してるんだ、殺されてるんだ。
怖い、すごく怖い。だから子どもは欲しくないって言った。
ちゃんと育てられる自信がない。
子どもにも嘘をつかなきゃいけないのはつらい。

っと、そういうことを話したと思う。


妻と、妻の両親と何度か話をした。
妻の両親も泣いてくれた。ああ、義理だけど義理じゃない、この人達は
お父さん、お母さんだ。
そう思えたとき、ふっと、「許し」という言葉が湧いてでた。

僕の両親も、きっとつらかったのかなと。
「許されたいんじゃないか」と。

だから何だ、今更。何が許しか。
僕の両親は僕を殴って切って焼いた。僕が救われたい時に
暴力を振るった。その事実は消えない。

一ヶ月こういうことを堂々巡りで考えたり、妻と話たりしてきた。

で、結果明日の夜、会うことにした。
別にその結果なんて大事じゃない。
これから、妻と妻の両親とより良く生きたいから彼らを許す。
彼らとそれでもわかりあえないなら、しかたがない。
会ったことで衝動的に殺そうとするかもしれない。
でもそうなったら妻が助けてくれるだろう。

でもちょこっと緊張するし気持ちが高ぶってるから
VIPに吐き出した。見てくれてありがとう。


僕と同じような経験をした人、聞いたことがある人
いっぱいいると思うし、僕よりも辛い目にあってきた人もいるだろう。
今現在進行中の人もいるとおもう。

救って欲しい人に、救われずに見捨てられたことがあるってだけで
相当に辛いんだよ。

でも恨んだり呪ったり憎んだりで人はより良く生きていけないと思う。
どこかでちょっとでも「許す」ことがなきゃ、やってられないんじゃなかろうか。
僕は香港での出来事を、二人はあの混沌とした街の毒気にあたったんだと
思うことにした。まぁ乞食にさらわれたのが発端っちゃそうなんだけど

綺麗事だ、絵空事だ、と思われるかもしれない。けど
人は人を許すことが出来るということをちょいと鑑みてほしいんだ。

僕の体には傷跡がいっぱいある。
それは嫌でも毎日目にするし、時々頭がクラクラしたり吐き気がすることもある。

体の傷跡が、そのまま心の傷になって癒えない人は
許すことが出来なくても、まずは忘れてしまえばどうだろう。
憎むことも、恨むこともせず、傷はただの傷として見る。
心を平坦にする。トゲトゲしない。どこにもひっかからない丸い心になる。

その傷のせいで、自分は不幸せになっている?
その傷のせいにして、自分は自分で不幸せを選んでいる?

どちらにしても、「これから」を生きなきゃいけないんだから
より良く生きよう。僕は最高に幸せなことに、大切な人を見つけたけれど
そうじゃない人は、「これから」があるよ。たぶん、僕よりも幸せになれるよ。


「許す」ということはとても偉大な行為だと、義父が言っていた。
(もちろん僕は「義理の」じゃなくて「ほんとうの」父だと思っている)
人間にしか出来ないことだと。

ココからは義父の言葉なんだけど
君の心がどちらを選ぶのか、憎んで恨む人生かどうか。
人を許しても幸せになれるとは、残念だけど、限らない。
でも両親とともに生きられなくとも過去を許し
自分で自分の傷を、ほんとうに過去のものにするには
「許し」は必要なんだと思う。たぶん。
いいじゃないか、これからより良く生きれば。
より良く生きる方を、選びなさい。
そのために傷が邪魔なら、消せないけど、心を平らに、丸くして。
そのためには、別になんだっていいんだ。クスリ(違法じゃないものね)でも
酒でも(アル中にはなるなよ)、女でも(浮気はするなよ)。
でもそれはその時の、いっときの救いだ。
最後は、「許す」ことができなければ、傷は傷のままだよ。

と。


別に義父は宗教やってるわけでもなんでもない
ただのサラリーマン。係長。僕と同じ。僕はヒラだけど。
フィクションだったらよかったと思う反面
こういう人に出会えたことが真実でよかったと思うよ。

このスレは半分、明日の自分を励ます、正当化するためにたてたようなものなんだ。
でも半分は、いま辛い人
辛い過去があって忘れられない人
辛い人を馬鹿にしてる人 に見てほしいなと思ってたてたんだ。
ちょうど日記も見つかったしね。

先日両親と電話で話したときには、手も声も震えていたよ。
明日実際にあって、どうなるか、わからない。
でも会うと決めた、約束もした。許せるかどうか、わからないけど
憎しみがもう一回やってくるかもしれないけど
僕は妻と、妻の両親と一緒ならなんとかなるかなと思ってます。


さて、こんなスレに付き合ってくれてありがとう。
もう2時半だ、そろそろ寝ないとね。

辛い人や辛い人がそばにいる人は
「許し」をちょこっと考えてみてください。

自分に対する許しでも、他人に対する許しでも。



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